フィンセント・ファン・ゴッホ (1853-1890) とポール・ゴーギャン (1848-1903)。 19 世紀末に活躍し、今なお世界中の人々に愛されてやまないこの二人の画家の関係に焦点を当てた、日本初となる展覧会を開催します。 |
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愛知展 会場: 愛知県美術館 |
10_7 '2016 「ゴッホとゴーギャン展」 プレス内覧会 & 開催式の会場風景です。 |
「ゴッホとゴーギャン展」 開会式 10_7 '2016 |
「展示構成」 ―PRESS RELEASE、「ゴッホとゴーギャン展」の図録 より抜粋して掲載しています― |
オランダのファン・ゴッホ美術館、クレラー=ミュラー美術館をはじめ、スペイン、デンマーク、スコットランド、スイス、アメリカ、日本の美術館などから集結するファン・ゴッホとゴーギャンの油彩画約
50 点と、二人の画家に影響を与えたジャン=フランソワ・ミレー、クロード・モネ、カミーユ・ピサロなどの油彩画約 10 点を含む、約 60 点により二人の偉大な芸術家の交流と作品の変遷を追います。 |
「展示構成」 第1章 近代絵画のパイオニア誕生 第2章 新しい絵画、新たな刺激と仲間との出会い 第3章 ポン=タヴェンのゴーギャン、アルルのファン・ゴッホ、そして共同生活へ 第4章 共同生活後のファン・ゴッホとゴーギャン 第5章 タヒチのゴーギャン |
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第1章 近代絵画のパイオニア誕生 1880 年ゴッホは 27 歳で画家を志し、ほぼ独学でデッサンを始め 1883 年両親の暮らすニューネンに移り、村で働く農民の生活、労働者の日常を描き、静物画にも取り組んでいった。 現実の世界に真摯に向かい合う姿勢は、生涯を通して制作の根幹をなすものでした。 ゴーギャンは、株式仲買人として働く傍ら、画塾へ通い、そこで 1879 年ピサロと交友を深めのち、モネなど印象派の制作方法を採用、特にセザンヌを尊敬した。 1883 年 34 歳の時に仕事を辞め本格的に画家の道へ進みます。 この時期のゴーギャンの作品は写実的な画風が特長です。 |
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・9 ポール・ゴーギャン 《自画像》 1885年、コペンハーゲン 油彩、カンバス 65.2 x 54.3cm キンベル美術館 |
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・9 《自画像》 ゴーギャンは、この 36 歳頃を描いた時期、妻の実家のあるコペンハーゲンに暮らしていた。 友人ピサロ宛の手紙に 「…妻、家族、手短に言えば皆が、この忌々しい絵画のせいで、わたしが生活費を稼げないことは恥ずべきことだと言う。 しかし、人は同時にふたつのことはできない。 わたしの 〈 ただひとつのできること 〉、それが絵画だ」 言葉の通じないコペンハーゲンでのゴーギャンは、一家の生計を担うこともできず、肩身の狭い思いをしていた。 1882 年に金融市場が崩壊するまでの、パリでの成功した仲買人であった頃とは対照的な暮らしであった。 |
第3章 ポン=タヴェンのゴーギャン、アルルのファン・ゴッホ、そして共同生活へ
1888 年 2 月末、ゴッホは大都市パリの喧騒を離れ、南仏アルルに移り住みました。 春の終わりから夏にかけての小麦の収穫に魅了され、・37 《収穫》 の主題をとりわけ好んだ。 「黄色い家」 の前にある公園からは、多くの絵画が生み出された。 1888 年 10 月になるとゴーギャンがゴッホの誘いに応じて合流し、南仏に芸術家の共同体を形成するという希望の第一歩であった。 二人は、ときにイーゼルを並べ一緒に制作をし、互いの技法や表現を試み、強く刺激を受け合いました。 寒い気候になると、二人は室内で制作し、肖像画や人物画を集中して描いた。 しかし、結局、彼らの性格と芸術的な性質は相容れず衝突を生み、共同生活はわずか 2 カ月で破綻することとなります。 |
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・42 フィンセント・ファン・ゴッホ 《ゴーギャンの椅子》 1888年11月、アルル
油彩、カンヴァス 90.5 x 72.7cm ファン・ゴッホ美術館(フィンセント・ファン・ゴッホ財団) |
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・42 ゴーギャンがアルルに到着して 5 周目の 1888 年 11 月下旬にゴッホは 《ファン・ゴッホの椅子》 と本作の 《ゴーギャンの椅子》
に着手した。 これらの椅子は、ゴッホが 「黄色い家」 に備える家具として揃えたもので、立派な肘掛け椅子のほうをゴーギャンに差し出し、自身は簡素な藁座面の椅子を使用した。
・49 ブドウの収穫という場面設定は、アルルでゴッホと一緒に散歩したときに見た、夕日にそまるブドウ畑の光景がきっかけになっている。 このアルルの風景の中に、ゴーギャンはブルターニュの伝統的な衣服を身に着けた女性を配して、ブドウが収穫される豊穣な光景に対する、ブルターニュの女性たちが漂わせる人間の悲惨な運命や死という主題の対比が、本作を複雑かつ重厚な象徴主義的作品へと昇華させている。
ゴーギャンは本作を 1888 年に制作した最良の自信作であるとみなし、ゴッホもまた称賛した。 ・37 ゴッホの 《収穫》 は、種まきから刈り入れまで季節の移ろいとともに変化する小麦の実りや屋根の黄やオレンジに、空や尾根、荷車の青が対比され美しい調和が生み出されている。 |
「ゴッホとゴーギャン展」 | ||
シラール・ファン・ヒューフテン Sjraar van Heugten 本展監修者/美術史家 | ||
私にとって本展覧会は、フィンセント・ファン・ゴッホのさまざまな側面を日本の皆様にご紹介する 3 回目の機会となります。 「ゴッホ展―孤高の画家の原風景」
(2005 年、東京国立近代美術館ほか) では、文学や宗教、過去と同時代の絵画、日本美術などからファン・ゴッホが得た多彩なインスピレーションを紹介し、「没後
120 年ゴッホ展―こうして私はゴッホになった」 (2010 年、国立新美術館はか) では、様式や技法の発展、アトリエで実践していた制作方法に焦点を当てました。 今回の 「ゴッホとゴーギャン展」 では、二人の偉大な画家とその交友関係というこれまでにないテーマに取り組んでいます。 ファン・ゴッホとゴーギャンが南仏アルルでともに過ごした 2 カ月間はもちろんのこと、その共同生活前後も含め丁寧に辿ります。 ファン・ゴッホの芸術は、深遠で人の慰めとなる何かをもたらしたいという彼の願いに深く根ざしていた。 一方で、ゴーギャンは美に関することこそが芸術において最も重要なものだと譲らなかった。 気質が大きく異なるばかりでなく、芸術に対する考えも相反していることがはっきりとした。 二人が交わした書簡にも注目し、共通点と相違点、互いの作品への評価や影響関係を探っていきます。 おおまかに言えば、ファン・ゴッホは日常の現実から作品を制作し、ゴーギャンは自由に想像を広げ創作した画家と言えます。 表現や技法、モティーフのとらえ方はそれぞれ異なりますが、人物を描くことへの関心などの共通点も認められます。 本展ではさらに、1880 年代の二人に多大な影響を与えたバルビゾン派や印象派の作品を展示します。 また、ファン・ゴッホとゴーギャンが表現を展開させていくうえできわめて重要な刺激となったポール・セリュジエ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナールらの絵画も紹介します。 「ゴッホとゴーギャン」 という二人の偉大な画家の関係を日本で初めて紹介する本展は、日本の皆様にとってファン・ゴッホの新たな一面を見ることが出来る貴重な機会となるでしょう。 |
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Profile シラール・ファン・ヒューフテン/ Sjraar van Heugten 1957年オランダ生まれ、ユトレヒト在住。 1988年にファン・ゴッホ美術館の展覧会担当学芸員に就任後、版画・素描担当学芸員等を経て、1999年にコレクション部長に就任。 ファン・ゴッホ美術館では1990年の没後100年を記念した Vincent van Gogh. Paintings をはじめ、数々の展覧会を担当。 2010年からは美術史家として日本で開催された 「没後 120 年ゴッホ展―こうして私はゴッホになった」 (1210 年)をはじめ、フランス、ベルギー、アメリカなどで開催されたファン・ゴッホ展を監修。 |
お問合せTel:03-5777-8600 (ハローダイヤル) 展覧会公式サイト:http://www.g-g2016.com/ 主催:東京都美術館(公益財団法人東京都歴史文化財団)、東京新聞、TBS 後援:オランダ王国大使館、TBSラジオ 協賛:三井住友銀行、日本写真印刷、三井物産 協力:エールフランス航空、KLMオランダ航空、日本航空、オランダ政府観光局 |
参考資料:「ゴッホとゴーギャン展」 図録、PRESS RELEASE 他。 |
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